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会社沿革

繊維メーカーとして大阪に産声を上げて以来、シキボウは130年以上の歴史を歩んできました。
その歴史の中で挑戦と成長を重ね、新しい機能と素材を社会に提案してきました。
これからも社会に寄り添い、安心・安全・快適な暮らしの実現に向けた素材とサービスを提供していきます。

1892-1937日本の紡績業の近代化とともに誕生

  1. 1892(明治25)年8月

    有限責任伝法紡績会社を設立、初代社長に鈴木勝夫が就任。
    【のちの繊維事業のルーツとなる】

  2. 1893(明治26)年3月

    本社を大阪市福島区に移転し、福島紡績株式会社に改称。

  3. 1908(明治41)年12月

    大成紡績株式会社(のちの飾磨支店)と合併。その後、新工場を建設し、1914(大正3)年3月に全面稼働を開始。

  4. 1911(明治44)年10月

    取締役に野村徳七(野村證券(株)創業者)、5代目社長に八代祐太郎が就任。

  5. 1917(大正6)年2月

    堺紡績株式会社(のちの堺支店)を吸収合併、当社初の織布部門となる徳島支店も傘下に収めた。

  6. 1922(大正11)年8月

    国内販路の拡張を目指して東京出張所(現・東京支社)を開設。

  7. 1923(大正12)年4月

    満州の大連市に関係会社第1号となる満州福紡株式会社を設立。1925(大正14)年に操業を開始。

  8. 1933(昭和8)年3月

    最初の多角化事業として、福島人絹株式会社を設立。

1937-1945国策による企業合同で敷島紡績株式会社へ

  1. 1941(昭和16)年3月

    堀尾染布工業所を東海染工株式会社として再建。紡績業・織布業・染色加工業の一貫生産体制を確立。

  2. 1941(昭和16)年6月

    第1次企業再編成で明治紡績合資会社と合併。これにより保有設備は11工場となった。

  3. 1941(昭和16)年8月

    天満織物株式会社と近江帆布株式会社が合併し、朝日紡績株式会社を設立。
    (現在の産業資材事業のルーツとなる)

  4. 1944(昭和19)年3月

    6代目社長 山内貢が交渉を進め、朝日紡績株式会社を合併、敷島紡績株式会社に改称。本社を大阪市東区(現・中央区)備後町に移転。

1945-1955困難を排して企業基盤の確立を目指す

  1. 1947(昭和22)年2月

    7代目社長に室賀國威専務が就任、経営再建に尽力。

  2. 1947(昭和22)年11月

    笹津工場、天皇陛下の御巡視を賜る。

  3. 1950(昭和25)年3月

    高知工場、天皇陛下の御巡視を賜る。

  4. 1953(昭和28)年2月

    主として帆布の生産販売を行う敷島帆布株式会社を設立。

  5. 1954(昭和29)年

    現在も使用されているマーメイドマークが誕生。(デザイナー:結城 昇)。

1955-1967高度経済成長下、積極投資で雄飛

  1. 1955(昭和30)年6月

    国内初となる「シキボウ・カラーシーツ」を発売。多様な二次製品で国内外の販路を開拓。

  2. 1958(昭和33)年

    国内で初めてポリエステルと綿の混紡糸(ポリエステル65%、綿35%の混紡比率)紡出に成功。以降、次々と綿混紡糸を開発。

  3. 1959(昭和34)年3月

    急速に普及し始めた化学繊維需要に対応するため、江南工場(現・株式会社シキボウ江南)を新設。

  4. 1959(昭和34)年10月

    敷島重布株式会社(のちの鈴鹿工場)を設立。超広幅多重織重布織機を導入。

  5. 1961(昭和36)年12月

    敷島帆布株式会社と敷島重布株式会社の2社を合併し、敷島カンバス株式会社を設立。(現・連結子会社)初代社長に塩路義韶が就任。

  6. 1963(昭和38)年2月

    新社屋の建設を機に、その管理運営会社として敷島興産株式会社(現・株式会社シキボウサービス)を設立。
    【のちの不動産・サービス事業のルーツとなる】

  7. 1963(昭和38)年11月

    和歌山リネン株式会社(現・シキボウリネン株式会社)に資本参加する。

  8. 1965(昭和40)年11月

    大阪市東区(現・中央区)備後町に新本社ビル「敷島ビル」を新築。

  9. 1966(昭和41)年4月

    寺岡商事株式会社との合弁により、泰和メリヤス工業株式会社を設立。当社のニット製品事業の始まりとなった。

  10. 1967(昭和42)年1月

    新内外綿株式会社の株式を取得し、資本参加。(現・連結子会社)

  11. 1967(昭和42)年2月

    江南工場に織布部門を新設、新鋭機械を導入して紡織一貫体制を確立。

  12. 1967(昭和42)年8月

    創立75周年。各事業場において記念式典開催。この年は、日本に近代紡績業が誕生してからちょうど100年の節目に当たる。

  13. 1967(昭和42)年12月

    室賀國威社長が初代会長に、磯井賢次専務が8代目社長に就任。

1968-1972難題を克服しつつ業容を拡大

  1. 1970(昭和45)年4月

    江南工場の織布工場の増設が完成。前年5月に完成した大規模な加工場と合わせて、近代的な紡織加工一貫体制を確立。

  2. 1970(昭和45)年12月

    磯井賢次社長が相談役に就任。9代目社長には、室賀國威会長が再就任。

  3. 1971(昭和46)年5月

    敷島カンバス株式会社は、帆布の生産と営業権を他社へ譲渡。

  4. 1971(昭和46)年12月

    松本良諄常務が10代目社長に就任し、室賀國威社長は相談役に就いた。

  5. 1972(昭和47)年4月

    インドネシアに株式会社マーメイド・テキスタイル・インダストリー・インドネシア(MERTEX)を設立。(現・連結子会社)

1973-1977第1次オイルショックが経営を直撃

  1. 1975(昭和50)年8月

    伊丹工場に連続シルケット機を新設。設備を大幅に更新し、連続シルケット加工糸「フィスコ®」の生産を開始。

  2. 1977(昭和52)年7月

    小林正夫専務が11代目社長に就任、同年10月5日、「刷新経営2カ年計画」を発表。

1978-1982変転する環境のもと業績好転を指向

  1. 1979(昭和54)年

    開発技術部で開発した加工澱粉をガラス繊維メーカーへ集束剤として販売。
    (現在の化成品事業のルーツとなる)

  2. 1980(昭和55)年9月

    株式会社マーメイドスポーツを設立し、ゴルフ場経営に参画する。

  3. 1981(昭和56)年4月

    抗菌防臭加工「ノンスタック®」を展示会で発表。
    ベストセラーとなる。

  4. 1981(昭和56)年6月

    堺事業所を竣工、翌1982(昭和57)年から捺染用糊剤の製造販売を開始。(現・株式会社シキボウ堺)

1983-1987業績向上を目指して全社運動を展開

  1. 1986(昭和61)年7月

    小林正夫社長が会長に、山内信副社長が12代目社長に就任。同年10月、短期収益向上作戦「サクセス18」を開始。

1892(明治25)年8月伝法紡績会社を設立、初代社長に鈴木勝夫が就任。

有限責任伝法紡績会社の発端は、1887(明治20)年、綿花問屋を営んでいた小林八郎兵衛が設立した日本綿繰である。同社は、大阪府西成郡伝法村(現・大阪市此花区伝法町)に綿繰機を備えた伝法工場を建設し、操業を開始した。その後、八幡紡績の買収や解散を経て、有限責任伝法紡績会社が資本金10万円、3,336錘の設備を持つ会社として1892(明治25)年8月5日に誕生した。

同年8月8日、第二十二国立銀行大阪支店長であり、紡績業の経営に意欲的であった鈴木勝夫が初代社長に就任した。

1893(明治26)年3月福島紡績株式会社に改称、工場に当時の最新鋭機を導入。

1892(明治25)年秋頃から、景気が上昇し始め、やがて生産効率の悪いミュール式の紡機のみでは、受注量に対応できなくなっていった。そこで伝法工場を売却し、大阪府西成郡上福島村(現・大阪市福島区)に、当時としては最新鋭のイギリス プラット社製リング式の紡機を装備した福島工場を新設することとした。

1893(明治26)年3月15日、社名を福島紡績株式会社と改称し、同年4月に本社を新工場建設の地・上福島村に移した。改称理由の一つに「伝法すなわちデンボ(腫れ物)は大きくなるとつぶれる」との縁起をかついだ、というエピソードが残されている。

1908(明治41)年12月大成紡績株式会社(のちの飾磨支店)と合併。

1906(明治39)年、大成紡績株式会社は兵庫県飾磨郡飾磨町(現・姫路市飾磨区細江)において渾大防芳造(のちの当社4代目社長)によって設立された。1908(明治41)年、当社は同社を合併。その後、新工場を建設し、1914(大正3)年3月、1万9,952錘の設備を擁する工場が全面稼働を開始した。

飾磨工場として50年間操業を続け、1964(昭和39)年4月に名称を姫路工場に変更。さらに27年後の1991(平成3)年11月23日に工場を閉鎖。再開発を経て1993(平成5)年11月27日に「姫路リバーシティショッピングセンター」に生まれかわる。

1911(明治44)年10月取締役に野村徳七(野村證券(株)創業者)、5代目社長に八代祐太郎が就任。

当社株式の買占め事件や社長の辞任、相次ぐ役員の交代など、経営の不安定な状況が続いたが、この危機に出資者として名乗りを上げたのが、証券業・野村徳七商店の2代目野村徳七(野村證券(株)創業者)と、綿花商・八代商店の八代祐太郎である。両人は当社役員および有力株主の株式2万6,000株を肩代わりし、経営危機を救った。1911(明治44)年10月24日に開かれた株主総会で八代は5代目社長に、野村は取締役に選任され、経営にあたることになった。

八代は、1943(昭和18)年6月まで32年間という長きにわたって社長を務めた。

1917(大正6)年2月堺紡績株式会社(のちの堺支店)を吸収合併、初めて織布部門を持つ。

日本の紡績業は、日露戦争後には綿糸から綿布へ重点を移し、第1次世界大戦後は生地綿布から加工綿布へと発展していったのである。こうした動きに対応するため、当社は1917(大正6)年2月、堺紡績株式会社を吸収合併。同時に同社の徳島支店も傘下に収め、それぞれ当社の堺支店、徳島支店とした。

とりわけ、当社にとって重要となったのは、徳島支店である。当社が初めて、織布部門を持つきっかけとなった。

合併時の保有設備は、堺支店と徳島支店を合わせ紡機4万2,348錘、織機1,248台であった。

1941(昭和16)年3月東海染工株式会社を設立、「紡・織・染」一貫生産体制を確立。

戦時色が深まる中、当社は経営を安定かつ堅固にするため、染色加工部門への進出を企図し、1939(昭和14)年に名古屋市東区の堀尾染布工業所を買収。これを別会社として経営するため、1941(昭和16)年3月に東海染工株式会社を設立した。

当時の加工能力は捺染が月産8万反、無地が同5万反であった。これらの製品は国内向けのほか、中近東および東南アジア(特にタイ、フランス領インドシナ、ビルマ)などへ輸出した。こうして当社は、紡績業・織布業・染色加工業の一貫生産体制を確立することとなった。

1941(昭和16)年8月天満織物(株)と近江帆布(株)が合併し、朝日紡績(株)を設立。

紡績協同体の強化や労力・資材の効率化を目的として第1次企業再編成が行われ、当時、紡績会社として兼営で織布業に進出していた天満織物株式会社と、帆布の製造や日本初の製紙用ドライヤーカンバスの生産をしていた近江帆布株式会社が合併して、1941(昭和16)年8月4日に朝日紡績株式会社が設立された。

1944(昭和19)年3月朝日紡績株式会社を合併、敷島紡績株式会社に改称。

太平洋戦争の緊迫化を背景に第3次企業再編成が決定され、当社は再び企業合同の必要に迫られた。

1943(昭和18)年6月、6代目社長に山内貢が就任して朝日紡績株式会社との合併交渉を進め、朝日紡績株式会社を解散、福島紡績株式会社を存続会社として合併。同時に本社を大阪市東区(現・中央区)備後町に移転し、社名を敷島紡績株式会社と改称して、新たな一歩を踏み出した。

新社名は日本の古称「やまと(大倭・大和・日本)」にかかる枕詞「しきしまの」に由来し、「歴史と伝統を誇る日本の紡績会社」という意味が込められている。

1947(昭和22)年2月7代目社長に室賀國威が就任、経営再建に尽力。

1947(昭和22)年2月28日、山内貢社長の後を継いで、室賀國威専務が7代目社長に就任、多難な時代での会社復興を託された。

室賀社長は、借入金の返済と増加する原綿買取資金の調達、自己資本と他人資本の均衡を保つため増資を決定。まず1948(昭和23)年8月に資本金を3,174万3,750円から1億2,000万円に増資し、翌年8月にはさらに4億円に増資した。これらの増資にあたっては、プレミアム付きの一般公募も行ったが、当時の紡績産業に対する株主の期待の大きさを反映して、いずれも順調に増資を完了することができた。

1967(昭和42)年4月
勲三等に叙せられ旭日中綬章を受賞。

1955(昭和30)年6月国内初となる「シキボウ・カラーシーツ」を発売。

1955(昭和30)年6月、国内初となる「シキボウ・カラーシーツ」を発売。シーツは白いものという固定観念を打ち破り、全7色(スカイブルー、ベビーピンク、サーモンピンク、グリーン、クリーム、イエロー、白)を揃え、お年玉つき年賀はがきの賞品としての採用や、天皇・皇后両陛下ご使用のシーツとして、宮内庁から注文があるなど、爆発的な人気を呼んだ。

以後、先染によるストライプ柄やタオルシーツ、ポリエステル・綿混紡のシーツまで数多くの組み合わせ商品を加え、当社の二次製品の根幹として業績を伸ばしていった。

1959(昭和34)年3月江南工場(現・株式会社シキボウ江南)を新設。

急速に普及し始めた化学繊維需要に対応するため、新鋭のポリエステル混紡糸生産を狙って、江南工場の建設を決定。その建設資金は、日本長期信用銀行の原邦道頭取が以前に大和銀行頭取であったことが縁で、同信用銀行を借入先として長期借入金を調達したものである。愛知県江南市に1957(昭和32)年4月、21万2,000m2の土地を取得し、1959(昭和34)年3月に第1期として2万7,648錘が竣工した。

工場の構造は完全温湿度調整の無窓工場で、翌年8月には第2期として、合繊紡機1,152錘のほか綿紡機3万錘の設置を完了、操業を開始した。

2002(平成14)年4月
株式会社シキボウ江南として事業継続する。

1961(昭和36)年12月敷島帆布(株)と敷島重布(株)が合併し、敷島カンバス(株)を設立。

1959(昭和34)年に設立された敷島重布株式会社は、工場完成後、初年度から黒字で成功を収めた。そして、1961(昭和36)年12月20日に敷島帆布株式会社と合併し、敷島カンバス株式会社が設立され、初代社長に塩路義韶が就任した。塩路社長は、日本で最初の製紙用ドライヤーカンバスの生産を開始した近江帆布株式会社の出身であった。

鈴鹿工場を主力工場とし、1963(昭和38)年4月にコルゲーターベルト、1964(昭和39)年7月にはプラスチックカンバスの生産を開始した。

1965(昭和40)年11月新本社ビル「敷島ビル」を新築。

業界未曽有の不況という難局を克服するべく、当社は営業活動の拡大、工場生産設備の更新、経営管理体制の強化に努めてきた。

その一環として1965(昭和40)年11月、大阪市東区(現・中央区)備後町3丁目に新本社ビル「敷島ビル」を新築した。本社ビル内では、電話と同様に呼び出した相手にテレタイプで通信するテレックスが導入された。

また、NEAC(ニアック)2200 電子計算機を導入、機械計算課に30名を配属して1966(昭和41)年1月に本格的な活動を開始した。

1967(昭和42)年1月新内外綿株式会社の株式を取得し、資本参加。(現・連結子会社)

紡績業における構造改善の要点の一つが、特繊法にも盛り込まれた中小業者のグループ化・系列化の推進であった。

1967(昭和42年)年1月に、新紡の1社であった新内外綿株式会社の株式48%を取得して資本参加した。

資本金2億7,500万円の同社は、岐阜県駒野と滋賀県彦根の2工場に綿紡機5万1,600錘、合繊紡機2万4,280錘を保有、月産綿糸は830梱、合繊糸は1,500梱であった。当社は賃紡系列強化のため、生産・販売両面にわたって同社と業務提携した。

2021(令和3)年 株式交換により完全子会社化。

1967(昭和42)年2月江南工場で紡織一貫体制を確立。業界最先端の工場に。

ポリエステル・綿混紡糸の紡出を行っていた江南工場に織布部門を新設し、紡織一貫体制とすることとし、1967(昭和42)年2月、新織布工場が竣工した。建屋は完全断熱構造で自動温湿度調整、光源は太陽光に近いカクテル光線、床はタイル貼りで、当時では最高の作業環境を整えた。

また、最新鋭の紡機5万9,600錘を全運転していた紡績部門についても、需要増大に呼応して紡機を増設し、さらなる戦力強化を図った。この結果、江南工場は紡織一貫体制を確立し、品質・生産効率とも業界最先端の工場となった。

1967(昭和42)年12月室賀國威社長が初代会長に、磯井賢次専務が8代目社長に就任。

1967(昭和42)年12月、室賀國威社長が初代会長に、磯井賢次専務が8代目社長に就任。会長・社長一体となって社業の発展に邁進しようとの決意のもと、紡織両部門にわたる自家設備の増設、業務提携の実施、大幅な機構改革、さらには将来的な安定成長に向けた新製品の研究開発など、諸施策を強力に推進するため、新たなスタートを切った。

本社機構を大幅に改正して1本部・12部・38課体制とした。大きな改正点は営業部門に本部制をしき、原料部・紡織営業部・製品営業部の3部制とし、営業力の強化を図ったことである。

1970(昭和45)年12月9代目社長に室賀國威会長が再就任。

全社的な機構改革および業務改編の最中にあった1970(昭和45)年12月、磯井賢次社長が健康上の理由から任期満了を機に退任。対米輸出規制など難問山積の折から、1947(昭和22)年2月から1967(昭和42)年12月まで20年間にわたって社長を勤めた室賀國威会長が9代目社長として再就任した。これに伴って磯井社長は相談役に就任した。

販売強化に対応するため、営業部の組織変更を行い、商品開発室の強化拡充および営業活動の機動性を具備し、新しい経営方針に基づく販売体制の確立を目指すこととした。

1971(昭和46)年5月敷島カンバス(株)は、帆布の生産と営業権を他社へ譲渡。

敷島カンバス株式会社は、75年間にわたって帆布の製造と販売を行ってきたが、1971(昭和46)年5月、その生産・営業権を他社へ譲渡することとし、業界から完全に撤退することに。帆布は永年事業を支えてきた柱であり、業界No.1の地位を確保してきただけに、撤退については賛否両論あったが、将来的な展望の上に立って苦渋の決断を下した。

なお、1962(昭和37)年、当時23歳の堀江謙一氏が世界初の太平洋単独無寄港横断に成功。その冒険を支えたのは、当社が寄贈したマーメイドマーク入りの帆だった。

1971(昭和46)年12月松本良諄常務が10代目社長に就任。

1971(昭和46)年12月23日、松本良諄常務が10代目社長に就任し、室賀國威社長は相談役に就いた。繊維業界は対米輸出規制をはじめとする難題に直面している中、松本社長は就任のメッセージとして、若さとバイタリティを発揮し、難局に立ち向かう決意を表明。重要項目として、紡織加工部門の推進、開発機能の一元化、非繊維部門の新たな展開、海外事業の新たな進出などを掲げた。

また、社長在任中に日本紡績協会会長を務めるなど、綿業振興に尽力。1989(平成元)年11月3日発表の秋の叙勲において勲三等瑞宝章に叙せられた。

1975(昭和50)年8月伊丹工場に連続シルケット機を新設、「フィスコ®」の生産を開始。

生産設備への積極投資の一環として、高級化、多様化が進むカーペット需要に応えるため、1974(昭和49)年9月、伊丹工場に柄出し装置付き新鋭タフト機を導入した。

さらに、翌1975(昭和50)年8月に連続シルケット機を新設して、設備を大幅に更新、当社における糸加工の中軸工場としての機能を備えることとなった。

この時に伊丹工場で生産を開始した連続シルケット加工糸が、現在も当社のニット素材としてベストセラーとなっている「fisco/フィスコ」(1992(平成4)年商標登録)である。

1977(昭和52)年7月小林正夫専務が11代目社長に就任。

1977(昭和52)年、オイルショック後の不況の最中にあった繊維産業は、設備過剰などによる構造的不況が続く最悪の状況にあり、当社も4年連続赤字決算となっていた。こうした事情を背景に、同年7月21日、松本良諄社長が任期半ばにして辞任、小林正夫専務が11代目社長に就任した。

小林社長は“フレッシュ敷紡”を旗印に、迅速・的確な経営の意思決定と適切かつ有効な業務執行を目的とした本社組織の一部改正を実施。総合企画室、技術本部、営業本部に、新たに総務・人事本部、財務・経理本部を加えた1室4本部制を導入した。

1981(昭和56)年4月抗菌防臭加工「ノンスタック®」を発表。ベストセラーとなる。

多様な付加加工の中でも、近来にない大型開発商品として注目を集めたのが、1981(昭和56)年4月に展示会で発表した抗菌防臭加工「ノンスタック®」である。

生活に快適性が求められる中、当社は抗菌防臭商品市場に早くから着目し、大手化学メーカーと共同で加工技術の開発を進めてきた。その結果、細菌の増殖を抑えることで優れた防臭効果を発揮する加工技術を確立した。

靴下の臭いを軽減する加工として爆発的に売れ、抗菌防臭加工は繊維業界内でも衛生加工の先駆けとなった。

1981(昭和56)年6月化成品事業の拠点として、堺事業所を設立。

当社の非繊維事業は1979(昭和54)年、開発技術部で加工澱粉を開発し、ガラス繊維メーカーへ集束剤として販売したことからはじまった。【今の化成品部のルーツとなる】

1981(昭和56)年、開発技術部から化成品部として独立し、堺事業所を竣工、翌1982(昭和57)年から捺染用糊剤の製造販売を開始。さらに、グアガムやタマリンドガムの加工品も手掛けることとなった。これらはガラス繊維集束剤、サイジング剤、捺染用糊剤として幅広く使用され、高い評価を受けた。のちに食品添加物としての多糖類も製造・販売していった。

1986(昭和61)年7月山内信副社長が12代目社長に就任。

1986(昭和61)年7月23日、小林正夫社長が会長に、山内信副社長が12代目社長に就任した。この役員異動は、非常に厳しい環境下にあって、溌溂とした新陣容で人心を一新、発想をたくましくして一層意欲的に経営を推進し、難関を突破しようと実行されたものである。

同年11月5日の総合幹部会議において、山内社長から、中期経営計画「HOP100」を補完するため、1986年下期から1987年下期に至る3期・18カ月間を対象に、20億円の収益向上を目標とする短期収益向上作戦「サクセス18」の実施が発表された。